ファースト・アルバム『TRAILRIDE』
文屋章氏によるライナーノーツ

 ルイジアナ州の南西部。そこに息づくダンス・ミュージックはザディコ/ケイジャンと呼ばれ、今も庶民の生活の一部として生き続けている。アメリカの何処を捜しても見つからないであろう特異な音楽、それを愛し演奏するバンドが日本にもあるのだ。レパートリーに数曲取り入れるという程度のバンドは過去にあったかも知れないが、このCDでアルバム・デビューするザディコ・キックスはザディコ/ケイジャン・オンリーなのだから驚く。先ずは彼らを虜にしたこの特異な音楽の成り立ちを概略だけでも述べないと話は進まない。

 17世紀の半ば、フランスから北米大陸に入植した人々は後に「アケイディア」と呼ばれるカナダの東南部で生活を始める。カトリックを信仰しフランスの文化を継承して足場を固めるが、18世紀に入るとイギリスの入植者が押し寄せるようになり、プロテスタントとカトリックといった宗教や民族上の争いに負けたアケイディア地方のフランス系移民は土地を追われた。流浪の民となった一団は北米大陸を南下し、フランス国王ルイ14世に由来する土地、ルイジアナへと辿りつく。その子孫は「アケイディアン」が変化した「ケイジャン」ピープルとして今もこの土地で暮らす。彼らの苦難に満ちた歴史、困難な開拓の日々を癒す音楽がケイジャン・ミュージックとして発展してきた。アコーディオン、フィドルを主体とした伴奏と哀愁あるメロディを持ち、加えてシンプルかつ軽快なツー・ステップやワルツなどのダンス・ビートを携え、彼らの生活に欠かせない娯楽として血流を保ってきたのだ。20世紀になって録音された初期のプリミティヴな音の感触はジョセフ・ファルコンやアイリー・リジューヌなどのヴィンテージ録音で確認できる。余談だが、40〜50年代のケイジャンの暮らしぶりを捉えた写真集が手元にある。「Cajuns Of Louisiana Bayous」(Authentic American Art : 1985)には、広大な湿地帯の交通手段となる丸木舟に乗ってアリゲイターやミンクを捕獲して現金収入を得る姿や、蟹、エビを捕って自給自足の素朴な生活をする彼らの姿が確認できる。 貧しい佇まいの中に、労働を終えたあとに奏でられたであろう質素なアコーディオンやフィドルの囁きが聞こえるような風景がそこにあった。

 ルイジアナ南西部のバイユー・カントリーはケイジャンの人々のみが暮らしていたわけではない。奴隷の子孫、黒人たちもそこに暮らしており、フランスの文化圏に黒人の文化が融合して興味深い音楽が生まれた。その始まりは黒人のアコーディオン奏者、アマディー・アルドワンの録音で窺える。ケイジャンのフィドル奏者、デニス・マッギーとの共演も残されておりケイジャンと黒人の共同体が確固たるものであったことが分かる。そういった伝統的なフォーク色濃い音は50年代に入りクリフトン・シェニエの登場でぐっとモダン化し黒人臭が強く香ってくる。黒人の大衆音楽、ブルースやR&Bがケイジャン・ミュージックと混ざり合い、摩擦熱を生んでザディコという泥臭いダンス・ミュージックが生まれる。アコーディオン、ラブ・ボード(金属の波板をスプーンなどの金属片で擦りリズムを生む)、そしてベース、ドラムスのリズム隊が付くバンド編成で強烈なダンス・ビートを轟かせ、シェニエはキング・オブ・ザディコとして君臨した。ブルースを聞くうちにクリフトン・シェニエの存在を知り、ザディコを知ったファンは僕だけではないはず。シェニエはアーフリー・レコードの社主、クリス・ストラクウィッツが熱心に録音し、多くのブルース・フェスティヴァルに招いてファンを増やしていった。シェニエ同様にザディコの基盤を築き、地元密着の姿勢を貫いたブーズー・チェイヴィスという存在も忘れてはならない。ブーズーをリスペクトし、ルイジアナ一帯のミュージシャンが参加した「The Songs Of Boozoo Chavis」(Fuel2000)というアルバムが作られたほどの先達である。 シェニエらの残した遺産は後にロッキン・デュプシーやバックウィート・ザディコ、ロッキン・シドニーなどに引き継がれ、ボー・ジョック、ファーネスト・アーセノウ、サム・ブラザーズ・ファイヴ、ネイザン・ウィリアムズなどの活躍や、21世紀の新世代ザディコを担うクリスとショーンのアルドワン兄弟、キース・フランク、ロージー・レデットらに連なって脈々と鼓動を打ち続ける。ソウル、ファンクからヒップ・ホップ、レゲエなどの現在進行形の要素を分け隔てなく取り入れ血肉化する、そんな意気込みはニューオーリンズのブラスバンドと同様、培った基盤をリスペクトしつつ新たな展開を行う貪欲なものであり、こういった姿勢を僕は好む。伝統芸能保存会的なものを否定はしないが、新たな息吹が吹き込まれないかぎりスリリングな音楽は生まれないのだから。 これらのアルバムを耳にしてザディコの楽しさを充分に感じとった、と自分では思っていたが、実際にナマ演奏を見るとその魅力は100倍に膨らむことが分かる。呪文のように反復される凄まじいビートの嵐が吹きすさぶ中、人々が踊る、躍る。男女がペアになって手を取り合いステップを踏む、踏む。辺りを見渡せば誰もが笑顔、笑顔。ゴスペル同様、生活感ある音楽の現場に共通する高揚感が確かにそこにあった。

この音空間に憧れ、自らそのパワーを創造しようとするザディコ・キックス。ここで彼らのキャリアを記しておこう。

2001年 : 横浜・六角橋商店街のストリート・ライヴに出演していたケイジャン・バンド、ラム・チョップス(竹内靖人・文科が在籍)に、ニューオーリンズもの主体のセカンド・セレネイダーズで鍵盤を担当していた中林由武がアコーディオンで参加し、セッションする。

2003年12月 :中林、竹内(bs)にオレンジ・カウンティ・ブラザースのサポート等でフィドルを弾いていた西田琢(g)、そして菅正一(ds)という顔ぶれでザディコ・バンドを結成。

2004年 : 竹内文科がラブ・ボードで参加、バンド名をザディコ・キックスとして本格的に活動開始。同年に中林麻里子もラブ・ボードで加わり現在の6人編成となる。

このメンバーでライヴを重ね、横浜のThumb’s Up、高円寺のJirokichiなどで演奏。06年には東京MXテレビの番組「大進撃放送BONZO!」に出演。その勢いは増すばかりで同年にはシリル・ネヴィルが出演した大阪中ノ島ミュージック・カーニヴァルに参加。07年には細野晴臣のワールド・シャイネス・ツアーの横浜公演にオープニング・アクトで起用されている。前後してドラムスがブルース・バンド出身の諸星聖臣に替わり、現在の顔ぶれとなってこのアルバム録音に至るわけだ。

ラブ・ボードの女性2名はバンド・メンバーの妻であることから、一部では「ザディコ界のABBA」と呼ばれているらしい(笑)。

 彼らの演奏は理屈ぬきで楽しい。ライヴを体験するたびにそう思う。メッセージは一つだけ。「踊れー!」のみだ。彼らの愛する南西ルイジアナの音楽背景を知るにこしたことはないが、ザディコ・キックスの演奏はそういった予備知識など無用。誰でも心地よくダンス・ビートに身を委ねられる。それが最大の強みだと思う。彼らが定期的に演奏する横浜・六角橋のストリート・ライヴや、障害者支援団体が主催する催しに招かれ続けていること、それは音楽という言葉が持つ「楽しさ」を体現できている証である。リーダーの中林はこう言う。「老若男女を問わずお客さんに楽しんでもらわないといけないと思っている。ザディコというジャンルは一歩間違えるとマニアックな方向に進みがちだが、企画内容やジャンルに拘らず、色んな場所で演奏していける努力と工夫を重ねてゆきたい」。この言葉に偽りはない。このアルバムには言葉どおりの演奏が記されている。アルバム・タイトルのトレイル・ライドは南西ルイジアナのあちこちで週末に行われるイベントとのこと。クリオール・カウボーイたちが自慢のファッションで愛馬を駆り、お披露目する場だ。もちろん会場ではザディコ・バンドの演奏あり、バーベキューありと大変な賑わいらしい。

 収録曲について詳細を書くスペースはないが、当然のことながら南西ルイジアナのスタンダード・ソングが並ぶ。ブーズー・チェイヴィスの代表作Bやブーズー作、ボー・ジョック経由のI、クリフトン・シェニエのA、そして哀感漂うケイジャン・クラシックのH。加えてルイジイナR&Bの佳曲、リル・ボブのEなどヴァラエティ豊か。ザディコ・キックス流に解釈した日本語の歌詞がこれらの楽曲を親しみやすいものに変えている。本場のザディコは体力勝負のワイルドな感触が強く音圧的に叶わない部分はある。だからこそザディコ・キックスは日本人のサイズに適した柔らかなアプローチによるオリジナル・ザディコを創り出そうとしているのでは、とアルバム全体を通じて感じた。

 このアルバムだけでザディコ・キックスの魅力は語れない。どちらかと言えば、彼らのライヴを体験し、その追体験としてCDに耳を傾けるというのが正解だろう。ライヴ会場に行けばレンタル・ラブ・ボードが用意してあるので誰でもザディコ・キックスとセッションできる!?さあ、ライヴの場で楽しく体を揺らして「ザディコを蹴っ飛ばそう」ぜっ!!

2009年 新春   文屋章